親の介護が始まったとき、
家族はきっと、自然に力を合わせるものだと思っていました。
ところが実際は──違ったのです。
誰かがやらなければいけない状況のなかで、
私が一歩を踏み出したその瞬間から、
なぜか“その役目”を、黙って引き受けることになっていました。
兄は、まるで他人事のように距離を置き、
「ありがとう」どころか、気づけば連絡さえも途絶えていく。
それでも私は、親のために、と思い続けてきました。
だけど、心のどこかではずっと──
「どうして、私ばかり?」という想いを、抱えていたのです。
はじめに|“わかってほしい”気持ち
介護が始まってから、私は何度も「なぜ私だけ?」という言葉を心の中で繰り返してきました。
誰かに頼まれたわけではない。自分が「やらなきゃ」と思って動いてきたこと。なのに、気がつけばその役目を背負わされているような感覚になっていて。兄や他のきょうだいたちは、まるで「自分は関係ない」という距離感で振る舞っているのに、親のことになると「それなりにやってますよ」という顔をする。
本音を言えば、腹が立つし、悲しい。でも、それ以上に「わかってもらえないこと」のつらさが、じわじわと心をむしばんでいきました。
この記事は、そんな私が「兄弟との温度差」に悩んだ日々の記録です。もし、同じような気持ちを抱えている方がいたら、少しでも共感してもらえたら嬉しいです。
兄は、連絡も来ない
親の介護が現実になったのは、母の体調が安定しなくなってきたことがきっかけでした。
最初はちょっとした通院の付き添いから始まり、気がつけば毎週のように実家へ通う日々。冷蔵庫の中をチェックし、薬の管理をし、介護保険の申請の準備をしながら、「私がやるしかない」と自然と動いていました。
兄にも何度か連絡しました。「お母さん、だいぶ弱ってきたみたい」「通院、今度の水曜なんだけど、ついてきてもらえると助かる」──
でも返事は「仕事だから無理」「そのへんはお前が詳しいだろ」「母さんのことは頼んだよ」。まるで他人事のような、軽い調子の返信が返ってくるばかり。
気づけば、私が送ったLINEは既読スルーになり、電話も出なくなりました。親のことを伝えるだけで、こちらが気をつかって言葉を選ばなければならない。それがどれほど心細かったか、兄はきっと知らないでしょう。
「手伝うよ」の言葉だけが空回り
一度だけ、兄が「何か手伝おうか?」と言ってきたことがあります。
正直、その言葉を聞いたとき「やっと少しは気にかけてくれるのかも」と思いました。けれど、いざお願いしてみると、
「それはそっちでやってくれたほうが早いよね?」
「オレが行っても母さんが喜ばないかもしれないし」
「書類とか苦手なんだよな」
……なんだ、口だけか。私は何を期待していたんだろう。そう思うと、怒りというよりも虚しさのほうが大きかった。
「やるよ」と言っておきながら、実際には手も足も出さず、最終的には「任せたよ」と丸投げされる。それがどれだけこちらを傷つけているか、きっと伝わっていないんだと思います。
それでも、親の前では優しい息子を演じる兄。その姿を見るたびに、「なんで私だけが疲弊しているの?」と、胸の奥がざわついて仕方ありませんでした。
「兄弟姉妹と介護の温度差」に悩むようになったきっかけは、
親の介護と本気で向き合うようになってからでした。
👉 親の介護と向き合う私のリアル|限界を感じた日、私はこうした では、私の原点とも言える体験を綴っています。
信じていたからこそ、壊れた
ある日、勇気を出して少しだけ本音を伝えました。「私ばかりがやっていて、正直きつい」と。
でも返ってきたのは、こういう言葉でした。
「そんなに悲観的になるなよ。考えすぎじゃないか?」
「お前、まるで悲劇のヒロインみたいだな」
「そうやって親のお金を自分のふところに入れてるって思われても、しょうがないよな」
……言葉にならなかった。
あまりの衝撃に、声も出ませんでした。
心が、壊れた。
兄は、ずっと私にとって“大きな支え”だった人。子どものころ、何かあるたびに兄を頼りにしていた。たとえ不器用でも、根底では信頼できる人だと思っていた。
そんな兄から、そんな言葉を投げかけられるなんて。
苦しかった。悲しかった。
何がどう、ではなくて。ただ、全身に沁みるような「なんとも言えない気持ち」になりました。
あの日を境に、私の中で何かが静かに崩れたように思います。
ノートに吐き出した日々
それからの私は、誰かと話すことに臆病になりました。
「どうせ伝わらない」
「こんな気持ち、わかってもらえるはずがない」
そんな思いが強くなり、気がつけば人との距離を置いていました。話すことでまた傷つくくらいなら、黙っていたほうがマシだと思ったのです。
でも、そのままでは自分の中に溜まっていくばかりでした。怒り、悲しみ、悔しさ、孤独。どこにも出せない感情を、私はノートに書き続けました。
誰にも見せることのない、小さな手帳。その中には「もう疲れた」「私は悪くないよね?」「お母さんが憎いわけじゃない」……そんな言葉が、毎日のように綴られていきました。
ノートに書くだけで、現実が変わるわけではありません。でも、不思議と少しだけ気持ちが落ち着く瞬間があったのです。
「今日もなんとかやり過ごした」
「まだ、私は大丈夫」
そんな小さな確認を重ねながら、なんとか崩れそうな自分を支えていたのだと思います。
誰かに話すことができなくても、自分の声を聞き取るように。ノートの中だけは、素直でいられた。それが私にとって、唯一の救いでした。
プロに頼ってもいい
ある日、どうしても動けない朝がありました。体が鉛のように重く、台所に立つ気力もなかった。
そのとき、ふと思い出したのが「Oisix(オイシックス)」のミールキットでした。
母の介護で手一杯だった頃、自分の食事はつい後回しになっていました。
買い物も料理も面倒で、「とりあえず何か食べる」ような日々。
そんなときに出会ったのが、Oisix(オイシックス)のミールキット。
野菜たっぷりで短時間で調理でき、「ちゃんと食べた」という気持ちが心を少し救ってくれました。
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限界を感じたタイミングで「家事代行サービスCaSy(カジー)」も利用しました。最初は罪悪感もありました。「自分でやらなきゃ」「手を抜いてはいけない」という気持ちが強かったのです。
介護や家事をすべて自分ひとりで抱えていた頃、心も体も限界に近づいていました。
そんなとき、「少しだけでも誰かに頼っていいんだ」と思わせてくれたのが、家事代行サービスCaSy(カジー)でした。
費用も手頃で、誰にも責められることなく、そっと私の負担を減らしてくれた存在です。
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実際にお願いしてみて、心底ホッとしました。
「助けてもらっていいんだ」
「自分の手を離していいところは、離してもいいんだ」
そう気づいたとき、張りつめていた糸が緩み、ようやく深呼吸ができるようになりました。
さらに、親の見守りに「セキュリティ型の見守りサービス(MANOMA)」も導入。
「もしものときに通知が来る」──その安心感は、思っていた以上に大きな支えになりました。
介護をしていると、「私が見ていなければ」と思い詰めてしまいます。
でも、24時間体制で向き合うのは現実的に不可能です。
そんなとき、離れていても異変を察知してくれる見守りサービスは、大きな安心につながりました。
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私たちには、頼っていいサービスがあります。無理をしない。がんばりすぎない。
それは、決して「甘え」ではなく、自分と家族を守るための「選択肢」なのだと、私はようやく理解しました。
兄との温度差に悩みながらも、私は私なりに“次の選択肢”を模索し始めました。
👉 施設を考えた日|罪悪感と解放感のあいだで では、そのときの葛藤と心の変化を正直に綴っています。
兄と距離を置く決意
兄との関係は、相変わらずです。連絡はほとんどなく、たまに話しても、どこか他人行儀で。
けれど、私はもう、期待することをやめました。
「なぜわかってくれないのか」と嘆くより、「この人とは価値観が違う」と割り切ったほうが、自分を守れると気づいたからです。
もちろん、悲しさや寂しさがゼロになったわけではありません。
でも、兄と適切な距離をとることで、自分自身の心を守れるなら、その選択をするしかないと思いました。
家族だからといって、なんでも共有しなければならないわけではない。
血のつながりよりも、「わかり合える誰か」とのつながりを、大切にしていきたい。
今の私は、そう思えるようになりました。
おわりに|同じ思いを抱えるあなたへ
介護は、想像以上に孤独です。
とくに、兄弟姉妹との温度差があると、その孤独は何倍にも増します。
「なぜ私だけ?」と叫びたくなる日もあるでしょう。
そんなとき、どうか思い出してほしいのです。
あなたはひとりではありません。
この文章を書いた私も、かつて、まったく同じ思いを抱えていました。
そして今も、完全に抜け出せたわけではありません。
でも、「自分を責めない」「人に頼ってもいい」「心を置いていかない」──そう決めてから、ほんの少しずつ、心が軽くなってきました。
読んでくださって、ありがとうございます。
あなたの今とこれからが、どうか優しさに包まれた日々でありますように。
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