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「もう娘のことがわからない」──50代の母が思春期の娘とすれ違いながらも見つけた、愛し方のヒント

思春期の娘のような少女がベッドで物思いにふける様子

50代を迎えたある日、ふと気づきました。
「どうしてこんなに娘との距離を感じるようになったのだろう」と。

あんなに小さくて、なんでも話してくれていた娘。
一緒に手をつないで歩き、笑いながらおしゃべりをした日々が、遠い昔のように感じられる瞬間が増えてきました。

思春期の娘と向き合うことは、想像以上に難しく、そして切ないものです。
何を考えているのか、どんなことで傷ついているのか、わかろうとすればするほど、遠ざかっていくような気がしてしまうのです。

私の言葉は届いているのか。
この子は今、私をどう思っているのか。
問いかけるたび、胸がざわつき、不安にかられます。

けれど同時に、こうも思います。
「わからない」からこそ、わかりたい。
その気持ちが、母としての愛の原点なのかもしれません。

この記事では、私自身の体験をもとに、
50代の母として、思春期の娘とどう向き合い、どのように乗り越えてきたかをお話ししていきます。

もしかしたら、あなたにも「わかる」と感じていただける瞬間があるかもしれません。


目次

娘の変化に戸惑う日々

思春期が訪れるまでは、娘との毎日は、穏やかで愛おしい時間でした。
一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを観て、眠る前には「今日楽しかったね」と話しながら布団に入る。
そんなささやかな時間が、私にとって何よりの幸せだったのです。

けれど、中学生になった頃から娘は変わり始めました。

話しかけても目を合わせなくなり、返事は短く、会話らしいやりとりがなくなっていきました。
家ではスマホを手放さず、部屋に閉じこもる時間が増え、食事中も沈黙が続くようになりました。

最初のうちは「反抗期だから」と受け流そうとしました。
けれど、どこかで心が追いついていない自分がいました。

「今の私の言葉は、届いているのだろうか」
「娘にとって、私はもう必要ない存在なのかもしれない」

そんな思いが胸の中で渦を巻き、
気づけば、娘と接するのが怖くなっていたのです。


距離の正体は「不安」

娘の態度に戸惑い、私の心はどんどん萎縮していきました。
何を話しかけても「うるさい」「関係ない」と言われるたび、
少しずつ、自信を失っていきました。

そんなある日、リビングでたまたま見かけた学校のプリントに、娘の落ち着かない字で「将来が不安」と書いてあるのを見つけました。

驚きました。
強がって見えた娘もまた、不安の中で揺れていたのです。

それは、まさに私自身と同じ感情でした。

50代という人生の節目に立ち、
体の変化や老後への心配、仕事や人間関係の悩みなど、
言葉にできない不安が静かに押し寄せていた私。

親も子も、それぞれの形で「先が見えない怖さ」に向き合っていたのだと気づいたとき、
少しだけ、娘との距離が近づいたように感じました。


「母としての正解」が見えなくなった

娘が小さかった頃、私は「いい母親でいたい」と強く思っていました。
手作りのごはん、手をつないで通園、夜は絵本の読み聞かせ。
少しでも娘の成長に良いことを、と意識して毎日を過ごしてきました。

けれど今、「正しい母親像」がわからなくなってしまったのです。

口を開けば反発され、沈黙すれば「無関心だ」と言われる。
励ましたいと思ってかけた言葉が「うるさい」に変換される日もあります。

「私、間違ってるのかな」
「もう、母親としての役目を終えてしまったのかもしれない」
そんなふうに思うことすらありました。

でもあるとき、ふと思いました。
「もしかしたら、“正しい母親”というものを目指すこと自体が、今は違うのかもしれない」と。

私たち50代の母親に求められるのは、
“正解”ではなく、“寄り添う柔らかさ”なのかもしれない。
完全に理解できなくても、分かろうとする姿勢。
ただ黙ってそばにいる勇気。
それだけで十分なのかもしれません。


少しだけ気持ちが近づいた瞬間

ある日、夕方のキッチンで、私は黙ってお味噌汁を作っていました。
そのとき、娘がぽつりと、「今日ね、ちょっと嫌なことあった」と言いました。

驚いて顔を上げた私に、彼女はすぐに「べつに、たいしたことじゃない」と言って目をそらしました。
でも私はその一言が、本当に嬉しかったのです。

会話はたったそれだけでしたが、私の中にはぽっと灯りがともるような感覚が残りました。

それから、私は娘に話しかけるのをやめませんでした。
返事がなくても、ため息をつかれても、「あなたに関心があるよ」ということだけは、言葉や態度で伝え続けました。

時間はかかりましたが、少しずつ、娘も私の気持ちを受け取ってくれているように感じられるようになっていきました。


すれ違うたびに見えてくる「母と娘のかたち」

私たち母娘は、完璧な関係ではありません。
むしろ、すれ違いの連続でした。

でもその中に、「わかり合おうとする努力」があることが、なによりも大切なのだと思います。

思春期の娘は、自分でも自分の気持ちが分からずに苦しんでいることもあります。
不安、孤独、苛立ち、焦り。
どこにぶつけていいかわからない感情が、母親に向けられるのも自然なことです。

そんなとき、母としてどう振る舞うのが正解なのかはわかりません。
でも少なくとも、私が信じているのは、「私は味方だよ」という気持ちを、ぶれずに持ち続けること。

娘がどんなに遠ざかるような態度を見せても、
私はここにいる。何があってもあなたの母親であることは変わらない。
その思いが、いつか娘の心に届く日が来ると信じています。


自分を犠牲にしすぎない「50代の母の時間」

思春期の娘に心を奪われていた頃、私は「自分の時間」をほとんど持っていませんでした。
娘の気分に振り回され、一喜一憂し、いつも心がざわざわしていたのです。

でも、あるときふと気づきました。
「私が疲れきっていては、娘の気持ちを受け止められないのではないか」と。

娘のことが心配で、自分の感情を後回しにしていたけれど、
母親だって一人の人間です。悲しいときもあれば、逃げたくなる日だってある。

それを認めてあげることが、私自身を大切にする第一歩でした。

最近は、朝の一杯のコーヒーを丁寧にいれること、
好きなエッセイを一章だけでも読むこと、
庭の小さな花を見て深呼吸すること。
そういう些細な“自分の時間”を積み重ねるようにしています。

すると、少しずつですが、心に余裕が生まれ、
娘の気持ちに飲み込まれずに寄り添えるようになってきました。


世代間ギャップを理解する視点

娘と私のあいだには、明らかに「価値観の違い」があります。
私が育ってきた時代と、彼女が生きている今の時代は、まったく別物です。

たとえば、私が「当たり前」だと思っていたことが、
娘には「古くさい」「意味がわからない」と言われてしまう。

最初は腹が立ちました。
「昔はね……」と話したくなる気持ちをぐっとこらえるのは、正直つらかったです。

でも、少しずつ考えが変わってきました。

「時代が違えば、考え方も違って当然」
「正しさの基準も、人によって違う」

そう受け止められるようになってから、
娘の言葉にも、以前より素直に耳を傾けられるようになりました。

母親の価値観を押しつけるのではなく、
娘が生きる時代の感覚に、私自身も学ばせてもらう。
そんな気持ちで接していくことが、今の私のテーマです。


「母と娘」ではなく「人と人」として向き合う

ある日、娘が放った言葉が、胸に刺さりました。

「ママはいつも、“私のことわかってる”って思ってるけど、そうでもないよ」

その瞬間、私ははっとしました。

「母親だから、娘のことは全部わかっている」と、
どこかで思い込んでいた自分に気づいたのです。

娘には娘の世界があり、感じ方や考え方にも、
私にはわからないことがたくさんあります。

それは寂しいことでもありますが、
同時に、尊重すべき“他者”としての存在なのだと思います。

娘を「母と娘」という関係性だけで見ない。
一人の人間として、別の人格として、対等に向き合っていく。

それは簡単なことではありません。
でも、その視点を持つようになってから、
娘に対して怒りや苛立ちよりも、好奇心や尊敬の気持ちが芽生えるようになってきたのです。

母親としての立場を見直しながら、「ちゃんとしなきゃ」を少しずつ手放していく中で、心も少しずつ軽くなりました。
👉 「良い親」でなくても大丈夫|肩の力を抜いて自由に生きる大切さ


「母親」としての役目が変わるとき

私たちが娘を育ててきたこれまでの年月は、
“守り、導き、手を引く”という立場だったかもしれません。

けれど、50代になり、娘が思春期に差しかかると、
その役目も少しずつ変わっていくのを感じます。

これまでのように細かく口出しをしたり、先回りして心配したりすることは、
時に娘の成長を妨げてしまうこともあるのだと知りました。

今、私がすべきことは、
「あなたを信じているよ」というまなざしで見守ること。
「困ったときは戻ってきていいよ」という心の扉を開いておくこと。
そして、必要なときには、すっと手を差し伸べられる場所にいること。

母親としての距離の取り方が変わっても、
愛情の深さは変わりません。
むしろ、言葉にしづらくなった今こそ、態度で示す愛が大切なのだと思います。


寂しさを越えて、新しい関係へ

正直に言えば、娘が自立していく過程で、私は何度も寂しさを感じました。

もう私を必要としないのではないか。
一緒に過ごす時間は減っていき、
やがて手の届かない場所に行ってしまうのではないか。

そんな思いが胸をよぎることもあります。

でも、それでいいのだと思えるようになってきました。

親は、子どもの人生の「前半部分」をともに歩む案内人のようなもの。
いずれ、子どもは自分の足で進んでいかなければならないのです。

そのときに、心のどこかで「母がいてくれたから」と思ってもらえるような存在でありたい。
それが、今の私の願いです。

娘との距離が変わっていくなかで、私自身も少しずつ、気持ちを整える時間を持つようになりました。
👉 子どもが巣立って寂しいあなたへ|心の穴を埋める“自分時間”のつくり方


娘との日々が教えてくれたこと

思春期の娘と向き合ってきた年月は、
私自身にとっても、学びと気づきの連続でした。

・感情をぶつけられることが、必ずしも「嫌われている」ことではない
・会話がない日にも、心は通っている場合がある
・「わからない」という前提に立つことで、相手を尊重できるようになる

何よりも、娘という存在が、私に「人を信じること」「受け入れること」の大切さを教えてくれました。

母としてではなく、一人の女性としても、
この経験はかけがえのないものになっています。

そんなある日、娘が「一人暮らしをしたい」と言い出したとき、私は驚きとともに、静かに受け入れる覚悟を決めました。
👉 娘が一人暮らしを始めた春。部屋を片付けながら、私も前を向いてみた


おわりに──あなたにも、寄り添いたい気持ちを込めて

この記事をここまで読んでくださった方の中には、
「わかる」「同じように悩んでいる」と感じた方もいらっしゃるかもしれません。

思春期の娘と向き合うことは、正解が見えず、不安に押しつぶされそうになることも多いです。
でも、それでもなお、私たちは「母」であり続けようとする。

その姿は、とても尊く、強く、そして美しいものです。

娘を思うあなたの気持ちは、きっと届いています。
たとえ、今は伝わっていないように感じても、
あなたのまなざしや、毎日の小さな優しさが、
娘の心のどこかに、確かに積み重なっているはずです。

この文章が、ほんの少しでも、あなたの心にそっと寄り添えたなら嬉しく思います。

私たち50代は、まだまだ揺れ動きながらも、
母として、女性として、日々を大切に生きていく途中なのだと思います。

すれ違いの先に、きっとまた笑い合える日がやってきます。
どうか、その日まで、自分のことも大切にしながら歩いていきましょう。

娘との関係に悩み、自分の心が折れそうになることもありました。
そんな夜に、私を少しだけやわらかくしてくれたものたちがあります。
“母として”だけでなく、“ひとりの私”として整える時間を、あなたにも。

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この記事を書いた人

当ブログ管理人のかこです。
50代になり、これからの人生をもっと楽しく、豊かに生きたいと思っています。このブログでは、50代からの人生開花をテーマに、日々の暮らしや心のケア、趣味のことなどをシェアしています。

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