「身の丈って、なんだろう」と思い始めた頃
50代になって、ふと考えるようになったことがあります。
それは、「私はいま、自分の身の丈に合った生き方をしているのだろうか?」という問いでした。
若い頃は、とにかくがむしゃらに走っていたように思います。
仕事に家庭に、子育てに。
自分の時間なんて二の次で、常に「ちゃんとやらなきゃ」と、肩に力が入っていたあの頃。
周りと比べては焦って、自分にダメ出しして、
「もっと頑張らないと」
「これくらいできなきゃダメだよね」
そんな風に自分を追い込むのが、クセのようになっていました。
だけど50代を迎えたある日、心と体が、ふと立ち止まったんです。
「……これ、いつまで続けるの?」
「そもそも私は、どうなりたいの?」
そんな静かな問いが、心の奥から浮かんできた瞬間でした。
当たり前だと思っていた「理想の姿」。
正社員としてバリバリ働いて、家の中もきちんと整っていて、いつも笑顔で余裕のある女性。
でも、それって本当に“私らしい姿”だったのでしょうか?
本音を言えば、疲れていました。
理想を追うことに、誰かと比べることに、自分を責め続ける毎日に。
「もっとシンプルに、もっと軽やかに生きたい」
そう願う気持ちが、じわじわと心の中に広がっていったのです。
そして、あるとき気づいたのです。
“身の丈で生きる”って、
「何かを諦めること」じゃなくて、
「自分にちょうどいいサイズに整えていくこと」なんだって。
この小さな気づきが、私の暮らしと心を、大きく変えるきっかけになりました。
長いあいだ、誰かのためにがんばりすぎてきた私たち。
50代を迎え、「そろそろ“自分”を優先してもいいのでは」と思い始めた方には、こちらの記事もおすすめです。
👉 誰かのためじゃなく、自分のために──無理しない毎日のつくり方
50代、何かがしんどくなった日常
「特別つらいことがあったわけじゃないのに、なんだか毎日がしんどい」
そう感じ始めたのは、50代に入って少し経った頃のことでした。
朝、目覚めても体が重い。
家事をこなしても、気分が晴れない。
何をしていても、心のどこかがずっとザワザワしていて、落ち着かない。
「こんなはずじゃなかった」と思いながら、
「いや、年齢のせいかも」と自分に言い聞かせる日々。
でも本当は、気づいていたんです。
疲れていたのは体だけじゃなく、心だったことに。
ちょっとした瞬間に、「がんばるの、もう無理かも」と感じることが増えてきました。
- きちんと料理をしようとしても、レシピを開くだけで面倒に思える
- 服を選ぶのさえ億劫で、いつも同じようなものばかり着ている
- 誰かと話すたびに、合わせることに疲れてしまう
日々の小さな“しんどさ”が、じわじわと積もっていって、
「このままじゃ、心がすり減ってしまう」
そう思ったのです。
ある日のこと、鏡に映る自分を見てハッとしました。
頬はこけ、目の奥がどこか寂しげで、表情にハリがない。
「これが今の私なの?」
そう問いかけながら、鏡に映る自分から目を逸らしたくなったのを、今でも覚えています。
自分を見失っていたんだと思います。
誰かのために、ちゃんと生きようとしすぎて、
“私自身”がどこか遠くに置き去りになっていたんです。
このままではダメだ。
でも、どうすればいいかわからない。
そんな気持ちを抱えながら、私はようやく“立ち止まる”という選択をすることにしたのです。
「ちゃんとしなきゃ」が口ぐせだった私は、家事も人づきあいも、つい頑張りすぎていました。
でも今は、“ちょうどいい”距離感を大事にしています。
家事も無理に完璧を目指すのではなく、自分の暮らしに合った道具を選ぶことで、ラクになることもあるなぁと感じていて。
最近は、コードレス掃除機を使うことが増えました。
軽くてパッと手に取れるし、コンセントも気にしなくていいから「今日は疲れたな…」って日でも、気が向いた時にサッと使えるのがいい感じです。
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“もっと頑張らなきゃ”が苦しくなった理由
私はずっと、「頑張ることが正しい」と思って生きてきました。
家族のために、子どものために、職場でも周囲の期待に応えるために。
「もっとしっかりしなきゃ」
「私がやらなきゃ誰がやるの?」
そんな言葉を自分に投げかけながら、必死で毎日をこなしてきました。
けれど──
50代になって、その「もっと」が、だんだん苦しくなっていったのです。
理由は、いくつかありました。
まずひとつは、「見返りを求めていたわけじゃないけれど、報われた実感がなかったこと」。
どれだけ尽くしても、家族は当たり前のように受け取り、
職場でも「ありがとう」のひと言すらないことも。
そしてもうひとつは、「“正解”が変わってしまったこと」。
これまでは、「努力すれば報われる」「頑張れば誰かが喜んでくれる」という信念があった。
でも、年齢とともに、それが必ずしも成り立たない場面が増えていきました。
どれだけ頑張っても、思うように物事が進まなかったり、
人間関係がギクシャクしたり、思わぬ誤解を受けたり。
そんなとき、自分の中に残ったのは、「頑張ったのに空回りした」というむなしさでした。
さらに、体力の衰えや更年期の影響も重なって、心にも疲れがたまりやすくなっていた時期。
人と比べては「自分はまだまだ」と思い込み、
SNSを見るたびに「この人はこんなにできてるのに…」と落ち込む。
本当はもう十分やっているのに、
「私はまだ足りない」と自分を責めるクセが抜けませんでした。
そんな自分に、問いかけたことがあります。
「私がやりたいのは、本当にこれだった?」
「もっと頑張る先に、私の幸せはあるの?」
そう思ったとき、初めて「頑張ることをやめる」という選択肢が、私の中に浮かんできたのです。
“朝の時間をゆるやかに迎える”だけでも、日々の焦りが少しずつ溶けていきます。
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“身の丈”という言葉に救われた日
頑張ることに疲れ果て、
でも立ち止まることにも罪悪感があった私が、ふと出会った言葉。
それが──
**「身の丈にあった生き方」**でした。
初めて耳にしたとき、「それって妥協じゃないの?」と思った自分もいます。
もっと高みを目指すべきじゃないか。まだできることがあるはずじゃないか。
そんなふうに、心のどこかで“欲”がささやいていたからです。
でも──
その言葉に、ほんの少しだけ「ほっとした」気持ちも湧いていたんです。
“背伸びしなくていい”
“誰かと比べなくていい”
“今の自分を受け入れてもいい”
それって、想像以上に安心することでした。
今までの私は、
「もっとやらなきゃ」
「こうあるべき」
「私が頑張らないと」
そんな“思い込み”にずっと縛られていた気がします。
でも、50代という節目に、人生を俯瞰で見られるようになって、やっと気づけたのです。
**「もっとより、“ちょうどいい”を選ぶ方が、私には合っている」**と。
「身の丈にあった生き方」には、目立つことも、すごい成果も必要ありません。
静かに穏やかに、自分らしく日々を重ねていく──
それだけで、こんなに心が軽くなるなんて。
「頑張らなくていい」と言われてもピンとこなかった私も、
「身の丈にあわせていい」と言われたとき、不思議と納得できたんです。
身の丈にあわせた暮らしの整え方
「身の丈にあった生き方をしよう」と決めたものの、
最初はどこから手をつければいいのか分かりませんでした。
でも、日々の暮らしを少しずつ見直すことで、
心が整っていくのを、私は実感していきました。
モノを減らすことで、心のノイズが減った
まず取り組んだのは「断捨離」でした。
部屋にあるモノの多さが、知らず知らずのうちに心の負担になっていたことに気づいたのです。
たとえば──
・着ていない服
・読まない本
・なんとなく置いてある雑貨
「いつか使うかも」と思って取っておいたモノたちが、
“今の自分”にとって必要かどうかを、改めて見つめ直しました。
すると不思議なことに、
空間がすっきりしてくると、頭の中までクリアになっていったのです。
食べることも、もっと自分に優しく
以前は、「栄養バランスを考えてちゃんと作らなきゃ」と
どこか義務感のように料理をしていた私。
でも今は、
「食べたいものを、食べたいように、無理なく」が基本。
一汁一菜の日もあれば、
スーパーのお惣菜で済ませる日もある。
だけど、そこに「罪悪感」はありません。
“手を抜くこと”と“丁寧に生きること”は、矛盾しない
そう思えるようになったことが、私にとっては大きな転換でした。
予定を詰め込まない、余白のある毎日
以前は、手帳が埋まっていないと不安で、
スケジュールを埋めるように動いていた私。
でも今は、あえて予定を「詰めない」ようにしています。
散歩をしたり、本を読んだり、ぼーっと空を見たり──
そんな“余白”こそが、今の私には必要だったんだと感じています。
暮らしを見直すことで、
「こんなふうに過ごせたらいいな」と思っていた理想の毎日に、
少しずつ自分が近づいていく。
それが、50代の今、何よりの幸せなんです。
小さな幸せを見つけられるようになった日々
「身の丈にあった生き方」を意識するようになってから、
私は日常の中にある“小さな幸せ”に、以前よりも敏感になりました。
大げさなことではなくても、
ほんの些細な出来事が心にじんわりと染み渡る──
そんな感覚が増えたように思います。
朝、窓から差し込む光に気づけるようになった
忙しさに追われていた頃は、
朝はただ「慌ただしく過ぎる時間」でした。
けれど今は、起きてすぐカーテンを開けると、
光の具合や空の色を、ゆっくり眺める余裕があります。
その静かな時間が、私の一日のスイッチになっているのです。
ご飯が美味しいと感じることが、贅沢だと思えるように
特別なレストランでなくても、
自宅で食べる普通のご飯に「美味しい」と感じられること。
それだけで「今日もいい日だったな」と思えるようになりました。
気張らない、等身大の暮らしがもたらしてくれる幸福感は、
たくさんのモノや刺激より、ずっと深くて確かなものでした。
一人でいる時間が「寂しさ」ではなく「豊かさ」に変わった
昔は、静かな部屋にひとりでいると、
どこか落ち着かず、テレビやスマホで「音」を埋めていました。
でも今は、一人で過ごす時間こそが、自分を癒す時間になっています。
お気に入りの椅子に腰掛けて、
コーヒーを片手に読書をしたり、日記を書いたり。
「誰かがいないと落ち着かない」という感覚が、
少しずつ薄れていったのです。
身の丈に合った暮らしは、
“静かだけれど確かな幸せ”を運んできてくれました。
同じように悩むあなたへ|無理しない生き方のすすめ
「身の丈で生きる」──
この言葉を、昔の私はどこか“あきらめ”のように感じていました。
「背伸びしないってことは、頑張らないってこと?」
「理想を追わないって、妥協なの?」
そんなふうに、勝手にマイナスの意味づけをしていたのです。
でも実際に、身の丈に合わせて暮らしや人間関係を見直してみたら、
それは“あきらめ”ではなく、“選択”なのだと気づきました。
本当は、頑張りすぎていたことに気づくための時間だった
多くの50代女性が、似たような悩みを抱えていると感じます。
家族のため、職場のため、周りに気を使いながら「いい人」でいようとする日々。
だけど、自分の気持ちを置き去りにしてまで頑張り続けていたら、
いつか心も体も、疲れてしまいますよね。
私はようやく、「頑張らない勇気」を持てるようになりました。
“無理をしない”と、“自分に戻れる”
無理をしないと決めた途端、
ふっと、体の奥から力が抜けていくのを感じました。
身の丈で生きるということは、
今の自分にちょうどいい距離感で、物や人と関われること。
すると、少しずつ心にも空白ができて、
そこに「好きなこと」や「大事にしたい想い」が戻ってくるようになったのです。
誰かと比べない「自分だけのペース」で生きていい
周りがどうとか、世間体がどうとか、
そういうものに振り回されすぎていたのかもしれません。
だけど、人生はマラソンではなく、散歩でもいい。
自分のペースで、自分の道を歩いていいんだと、今は心から思えます。
まとめ:身の丈にあった生き方が、私を救ってくれた
50代を迎えた私が、「身の丈にあった生き方」を選ぶようになったのは、
きっともう無理をしてまで誰かに合わせる必要がないと、
やっと気づけたからでした。
若い頃の私は、「もっと頑張らなきゃ」「人より遅れてはいけない」と、
つねに何かに追い立てられていた気がします。
けれど今は、ちょっと立ち止まって深呼吸をし、
“自分の心地よさ”を基準に暮らしを選べるようになりました。
身の丈にあった生き方がくれた、3つのギフト
- 心の余裕
→ 頑張らなくていいと思えたとき、心にふっと余白が生まれました。 - 自分らしさの回復
→ 他人軸で生きていた私が、ようやく“自分の声”を聴けるように。 - 小さな幸せの再発見
→ 何気ない日常や、当たり前の景色の中に、ちゃんと幸せがあること。
「身の丈」って、決して地味でも、つまらなくもない。
むしろ、“自分らしさ”を取り戻すための、とても贅沢な道なのだと思います。
あなたにも、あなたの“ちょうどいい”がきっとあるはずです。
誰かの真似じゃなくて、あなたの暮らしにぴったりの選択を、
どうかこれからも、大切にしていってくださいね。
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